「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこし明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」ご存知、枕草子の書き出しの部分である。早春の明け方、山ぎはにうす紫色の雲が細くたなびいている風情を、女性らしい繊細な視覚で描写した自然観は見事で、1000 年というはるかな時空を超えた現在でも、同じような情景を目にすることがある。
ちょうどこの時期、里山の冬枯れの残る林床に、細い濃緑の葉を広げその間からひっそりと花を覗かせるのがシュンランである。
シュンランは北海道の奥尻島と本州以南の低山帯に分布するラン科の常緑多年草。木漏れ日の差すやや乾燥した土地を好み、雑木林やアカマツ林の林内に群生する。
根茎は肉質。太い紐状で、多数発生し、幅1cm ほどの線形の葉を束生する。葉質は硬く、葉縁には細かい鋸歯がある。早春、高さ10~20cm の膜質の鞘のつく花茎を伸ばし、その頂部に多少香気のある淡黄緑色の花を1 個咲かせる。萼片は3 枚、肉質で披針形、花弁も同じように3 枚で、両側のものには赤紫色の条線が入り、中央のものは唇弁となり紫色の斑点がつく。
ラン科の植物は、高等植物のなかで最も種類数が多く、全世界で750 属、約17,000 種あるといわれ、わが国でも75 属250 種を数える。そのなかのシュンランは、学名をCymbidium Goeningiiと書くように、シンビジュームの仲間である。この属のランは、日本と中国大陸に多く産するため、園芸界では西洋ランと区別して東洋ランと呼ばれる。一般に、西洋ランは、カトレアなどのように華麗で妖艶なものが多いが、東洋ランは地味で野趣に富んでいる。
シュンランは、春に咲くランということで春蘭であるが、これは漢名に基づいている。また古くからホクロと呼ばれるのは、唇弁にある紫色の斑点を人間の黒子(ほくろ)に見たてた名である。 なお、シュンランには、ジジババという全国的に使われる俗名もあるが、その由来についてはいささか差し支えがあるので、紙上では遠慮させていただく。
「春蘭を添えあるがよし嶬峨料理」の句があるように、シュンランの花は昔から食用にされてきた。花茎の袴を外し、花と一緒に熱湯を通してからこれを三杯酢に浸して食べるのである。また、結婚式などのお祝いの席で用いる花湯(ラン茶)も、シュンランの花を塩蔵にしておき、これに湯を注いだものである。
季題としての春蘭は比較的新しく、江戸時代に作られた俳句は見当たらない。どうゆうわけか和歌においても同様である。しかし明治期以降はたくさんの句が詠まれており、そのなかでも次の句は佳作として知られている。
作者は松本清張の小説「菊枕」の主人公で、大正から昭和の初期にかけて活躍した天才的女流歌人である。春蘭の花は地味で目立たないが、どことなく気品がある。その清楚な花を雨で濡らすことによって、一層美しさを引き立てている句である。
冬山で一人もくもくと立木を伐り倒している作業員の足元に、一株の春蘭がひっそりと花を咲かせている光景が目に浮かんでくる。
ちなみに、次はシダレヤナギを詠んだ句である。
野生のシュンランには、花弁の色合い、香気、葉の形態などに様々な変異があり、特に珍奇なものは好事家の間で高価に取り引きされている。このため、シュンランであれば見つけ次第、根こそぎ掘り取って行く者が跡を絶たない。上の2 句は、里山にシュンランがたくさん自生していた良き時代の句である。