詩人であり、また美人画の天才でもあった竹久夢二が、大正12年に刊行した詩集「どんたく」に収まる「宵待草」の冒頭の一節である。その5年後、作曲家多忠亮がこの詩に曲をつけると爆発的に流行し、一世を風靡したもので、今でもこの歌を口ずさむ人は多い。甘くやるせないこの曲によって宵待草の名は一躍有名になったが、実はこのヨイマチグサは夢二の誤用によるもので正式な和名ではない。 話はかわって、今年の6月13日は作家太宰治の生誕100年に当たっており、出身地の青森県金木町では故人を偲ぶセレモニーが盛大に行われている。その太宰が昭和13年の秋、山梨県の河口湖を見下ろす山中の「天下茶屋」に2ヶ月ほど逗留して書いた「富獄百景」に、「富士には月見草がよく似合う」の名句が出てくる。このツキミソウの名は近くに住む老婆に教わったと小説に書いてあるが、この名前も植物図鑑には出ていない。
夢二も太宰も誤用していたこの優雅な名の植物は、夕方に咲き、翌朝は萎んでしまうという花の特性からきている俗名で、正式な和名は、アカバナ科マツヨイグサ属の特定の種を指しており宵待草はマツヨイグサ、月見草はメマツヨイグサもしくはオオマツヨイグサということで定着している。
マツヨイグサ属(Oenothera)の植物は、世界に約80種あるといわれ、すべてアメリカ大陸原産である。それらの中の花の美しいものが観賞用に輸出され世界各地に広まったもので、宮城県ではオオマツヨイグサ、メマツヨイグサ、コマツヨイグサ、マツヨイグサ、ユウゲショウの6種が記録されており、 マツヨイグサを除く多くは野生状態で分布する。
県内で最も多く見られるのが“メマツヨイグサ”。原野、川原、海辺などの荒れ地に生える越年草で、茎は1本立ちをするか枝を分けるかして、高さは1.2mぐらい、全体に上を向く伏毛をつける。葉は茎に直接つき、葉身は卵形ないし長楕円状披針形で縁に低い鋸歯がある。花期は盛夏、葉腋に単生するか頂生の穂状花序を作る。がくの下部は長い筒となり、花弁は4枚で黄色、花径は2cm内外で、雄しべは8個、雌しべは1個、日が暮れてから開くので月見草の名がぴったりである。北米原産で明治後期の渡来と見られ、繁殖力が極めて旺盛で、今では全国各地に分布し、日本の国土にすっかり溶け込んでいる。 もう一つの月見草、オオマツヨイグサは、前種より背丈が高く、花径も5cmを超し、すべて大型である。メマツヨイグサと同じように荒地に生え、両者が混生して群落を作ることが多い。
一方、夢二が宵待草と呼んだマツヨイグサは、南米ペルーの原産で嘉永7年(1851年)に渡来したといわれる。背丈は70cmくらいのどこか淋しげのある花で、はじめは庭園に植栽されていて、逸出した野生種も見られていたが、どうしたわけか昭和の40年代以降、急速に減少し、現在ではほとんど見掛けなくなった。
俳句では俗名の月見草や待宵草が夏の季題で、著名な俳人の句が多く残されている。帰化植物でありながら、今ではわが国の夏の夕景色になくてはならない存在である。
月見草はススキが生えるような海岸や川原などの荒れ地に多く生える。次に句はその光景を詠んだものであろう。
戦時中、疎開したまま仙台市に住みつき、「駒草」を主宰しながら昭和55年に亡くなった昭和俳壇の重鎮、阿部みどり女は、次の句を残している。