No.53 ヨモギ(蓬、艾)
(株) 宮城環境保全研究所  大柳雄彦
 石垣の隙間から顔を出したヨモギ
石垣の隙間から顔を出したヨモギ

 3月21日は、24節気の4番目にあたる春分の日。太陽が春分点(黄径0度)に達し、昼と夜の時間の長さがちょうど等しくなる日である。この日を中日として前後3日ずつ、合計7日間を彼岸と呼ぶ。これと同じ現象は秋にも発生し、秋分の日(9月23日)を中日とする7日間が秋彼岸である。
 彼岸には仏教に関わる諸行事が行われ、春の場合は仏壇に草餅を供えることが多い。この草餅はデパートやコンビニの食品売り場で簡単に求められるが、かつては野外で摘んだヨモギの若葉を爼で刻み、もち米と一緒に臼で挽いた自家製のものを供えていた。

おらが世やそこらの草も餅になる一茶

 ヨモギの新葉は柔らかく,特殊な香気もあるので餅草と呼ばれている。
 ヨモギは北海道を除く日本全国の低山帯に自生するキク科の多年草。春早く、地中に伸びる地下茎の節々から新芽を出して繁殖する。直接種子で増殖するものもある。このため、荒地、路傍、堤防、などへは真っ先に侵入するパイオニア種であり、法面の緑化工事にも使われる。
 茎は叢生し、背丈は70cm~100cmぐらい。葉は互生、葉身は深く羽状に切れ込み、裏面に白い綿毛が密生する。夏の終わりごろ、茎の上部の小枝に淡褐色で小さな鐘形の頭状花を円錐花序にたくさんつける。
 北海道に自生するのはオオヨモギ。ヨモギよりかなり大型で、高さは2mに達し、葉柄に翼がある。宮城県でも標高の高いブナ帯の草原や河原などに分布する。
 ヨモギの和名の由来は、よく萌える草、燃える草、あたり一面に生えるので四方草など、色々な説があって定かではない。漢字で蓬または艾と書くが、艾はもぐさとも読む。
 艾は古代から人間生活と深い関わりを持ってきた。前述のように佛事や祝いごとには草餅や草団子を作り、生の葉はそのまま腹痛や切り傷、虫刺されなどの治療に用い、乾燥させた葉は漢方で艾葉(がいよう)と称し、強壮、鎮痛、止血などに効果があるとされてきた。また茎葉は萌黄色を出す染料としても知られている。
 ヨモギには全草、強い芳香がある。これが邪気を祓う霊力であると信じられ、5月5日の端午の節句にはショウブとともに軒下に挿し、また風呂に入れたりする。この悪魔祓いの習慣は、奈
良時代には行われており、それを証明する大伴の家持の歌が万葉集(巻18・4116)に載っている。
 ヨモギのもう一つの主要な用途に、もぐさがある。灸に使うもぐさは、万病を治すといわれ、平安時代の初期からその療法は行われていた。もぐさはヨモギの葉の裏側に綿毛が最も多く付く梅雨明けに採取し、天日に干してこれを冬の時期に臼で粉砕して綿の部分だけを取り出して作る。
 もぐさを詠んだ有名な歌がある。

かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを

 後拾遺集巻11に「女にはじめてつかはしける」として出ている藤原実方朝臣の歌で小倉100人一首にも取り上げられている。
 初句の「かくとだに」は、こんな状態のなかですがといった程度の意味。続く「えやはいぶきのさしも草」は、いささか難解である。「いぶき」は滋賀・岐阜両県にまたがる伊吹山のようで、この地は昔からもぐさの産地として知られていた。そこで、この伊吹にヨモギの異名である「さしも草」を懸け、「さしも知らじな」や「燃ゆる思ひ(火)を」の語句を誘導していると思われるのである。かなり技巧を凝らしてはいるが、大意は、伊吹山に産するもぐさのように、一人で胸を焦がし、くすぶり燃えている私の思いをあなたはわかっていないだろうね、と嘆いている歌と考えられる。
 実方朝臣がこの難しい恋歌を贈った相手が誰なのか興味の持たれるところであるが、芥川賞作家の田辺聖子さんは、才女といわれた清少納言であろうと推定しておられる。ただし彼女の著書の枕草子には実方のことをあまりよく書いていないので、この恋文には全く関心がなかったようである。
 実方朝臣は、中古三十六歌仙の一人に数えられる歌よみの達人であるが、素行が悪く、同僚との間で争いが絶えなかったといわれる。結局は陸奥守に左遷され、任地の名取市愛島で非業の最期を遂げたと伝えられる※1
 俳句で単に蓬といえば春の季語である。綿のように柔らかい緑色の新葉はいかにも春の色にふさわしい。現代俳壇の巨匠といわれる人達の句を紹介するが、いずれも雛祭りや春の彼岸に供える草餅の材料として詠まれた句である。

風吹いて持つ手にあまる蓬かな水原秋櫻子
押えてもふくるる籠の蓬かな田実花
草蓬あまりにかろく骨置かる加藤楸郎
籠の底の蓬しをれて出でにけり高浜虚子
俎の蓬を刻みたるみどり山口誓子

※1ある日、実方が道祖神の前を馬に乗ったまま通り過ぎようとしたところ、里人から、「土人の女が不義をして親に勘当され怨み死んだところで、死霊剣灼であるので祀ったモノだ。土人の人はこの神前を通るときは必ず下馬して通るのです。」といわれたが、実方は怒りを発し、「吾は勅命により阿古耶の松を探している。然も吾は陸奥守である。そんな不浄の神は祀るべきに有らず。」と通り過ぎようとしたとき、馬は棒立ちになって荒れ狂い、実方は落馬し重傷を負い、とうとう不帰の客となってしまった。(今昔物語 源平盛衰記)
※2藤原実方朝臣の墓は、西行(平安末期から鎌倉時代にかけての俳人)も訪れており、歌人にとって憧憬の地であった。1689年、芭蕉は門人曽良とこの地を訪れたが、五月雨の悪路と日没が重なり、たどり着くことができなかった。写真の四角い碑は、平成元年に芭蕉を追慕するため名取市により建立されたものである。その横の自然石の碑は、西行の歌、「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞみる」が刻まれている。碑の後ろに見えるススキは、形見のススキ。

藤原実方朝臣の墓
藤原実方朝臣の墓
芭蕉の無念を追慕する碑※2
芭蕉の無念を追慕する碑※2
[写真および※1,2は山本]
2010年4月9日