絵画の題材にされる季節の植物の絶妙な組み合わせを双清(そうせい)とよぶらしい。芳香を放ち、気品のある花を咲かせる梅と水仙の関係もその一つである。梅は既に紹介してあるので、今回は水仙を取り上げてみた。
庭園に栽培され、時には海岸の近くに野生化する水仙は、ヒガンバナ科の外来種。原産地は地中海の沿岸諸国とされ、これがシルクロードを経由して中国に入り、その後日本に伝わったといわれる。しかし、その渡来の時期については次のように2つの説があって、明らかではない。
●室町時代に伝来:水仙の名がわが国の書物に初めて現れるのは、室町時代に編纂された下学集(かがくしゅう)。この書に「漢名水仙華、和名雪中華」と記され、梅を兄とする漢詩も添えてある。万葉集などの古歌集や平安文学など、これ以前の古書に水仙の名が見られないこともあって、室町時代に明の国から持ち込まれたとする説。
●奈良時代に帰化:越前、紀伊、淡路などの海岸に見られる広大な水仙の群生地は、中国大陸から流れ着いた球根で繁殖した野生種といわれる。分根でしか繁殖できない水仙がこのような大群落を形成するには長い年月を要したはずで、帰化が始まったのは、中国大陸で栽培が盛んになった唐の時代、つまり、わが国の奈良時代に遡るとする説。
話は変わるが、今年の正月から始まったNHKの大河ドラマ「平清盛」に、宮中で水仙の花を活けている場面が映っていた。周知の通り、このドラマは、白河法皇が院政を布いていた平安時代のもので、下学集が世に出る300年以上も前の話である。そのドラマに水仙を登場させるのは、室町時代の渡来説を否定することになる。天下のNHKが時代考証を怠るわけはないので、おそらくこの水仙は瀬戸内海の沿岸に生えていた野生種を持ち込んだと見て、奈良時代の渡来説を有力視しているものと思われる。
わが国で広く栽培される水仙の正式な和名は、ニホンズイセン(Narcissus Tazetta var. chinensis)。学名からもわかるようにフサザキスイセンの変種で、海岸の近くに自生するのも本種である。属名はギリシャ神話の美少年ナルキソス(Narkissos)の名に因むとされる。この神話は、女性に全く興味を示さなかったナルキソスは、湖面に映る自分の姿に恋するようになり、いつまでも見つめているうちに水仙に化したという伝説。ついでながら精神分析用語のナルシズム(自己陶酔)は、この美少年の名から来ている。
水仙はヒガンバナと同様、種子が出来ないため鱗茎(根茎)の内部に新しい鱗茎を作り、これを分離して繁殖する。鱗茎はラッキョウのような楕円状で下部に多数のヒゲ根を生やす。鱗茎には有毒成分を含むが、これが薬用にもなり、民間では摺り潰して腫物や打撲の局部に貼り付けると著効があるとされる。
葉は冬に入ってから伸び始める。細長い線形の葉身は、平たく重なり、長さは20~30cm、白緑色を帯びて、質はやや厚い。花も冬期に咲き、12月に九州、2月に関東、4月に北海道と、春の訪れを告げるスイセン前線を北上させる。葉の間から出る15~30cmの花茎に1~6個の花を横向きに咲かせる。外側の花冠は白色で6枚、その中央に盃形で黄色の副花冠があって芳香を発する。
水仙は、漢名の音読みをそのまま日本名にしたもので、雪中華のほか雅客、金盞銀台の雅名もある。ところが和歌の世界では、この優雅な名を持つ植物に関心はなかったようで、水仙を詠む古歌は全く知られていない。大正期になって、やっと登場したのが次の歌である。
作者は40歳で夭逝した爵位をもつ自然歌人木下利玄。ニホンズイセンの特徴を平易にかつ忠実に表現している。
短歌と違って俳句では江戸期以降、多くの句が作られている。俳句は江戸初期、松尾芭蕉らによって文芸上の地位を揺るぎないものにしているが、水仙が庶民の花として植栽されるようになるのもこの頃からである。まずは、江戸期の有名な句を紹介してみる。
初句から4句までが蕉門の句。丈草の句には双清の組み合わせが見られる。
以下は近代句である。
なかでも名句として引き合いに出されるのが、波郷の句。結核に病み、死期が迫るなか、なんとか立ち上がろうと水仙の花に託した句で、晩年の闘病記録をまとめた句集「惜命」に所収。
次の句は海岸近くに生える野生種を詠んだもの。
第1句は薄倖の俳人真砂女が、離婚後、南房総の実家に戻り、近くの海岸に咲く水仙の群落に屈折した心境を語りかけている句。第2句は、寒中の越前海岸に耐えて咲く広大な水仙の野に容赦なく鎌を入れて刈り取る悲惨とも思える句で、この越前海岸の水仙は福井県の県花に指定されている。