ヤマブキ(Kerria japonica)は日本全国の里山から奥山にかけて広く分布するバラ科の落葉低木。特に川岸や沢筋など、湿り気のある場所を好み群生する。背丈はせいぜい2mぐらい、幹は多数叢生し、基部は木質化するので樹木の仲間に入れられている。枝は鮮やかな緑色を帯び、長い枝先は下方に垂れる。子供の頃、この茎の中に詰まる白い髄を篠竹など使って弾き飛ばし、山吹鉄砲と称して遊んだものである。葉も茎と同様緑色で互生につき、卵形、縁に不整の重鋸歯がある。
春もそろそろ終わりという時期に山吹の花は咲き出す。花は昨年の枝から出る短枝に頂生し、花弁は5枚で楕円形、その色は黄金色と表現される。花は散りやすいが、水面に映るその光景は、古くから詩歌の題材として歌われてきた。ちなみに、「桜井の駅の親子の別れ*1」で知られる楠正成の旗に画かれる菊水の紋は、菊と水ではなく、水の流れに配したヤマブキの花とされている。
山吹に実はならないと思っている人もいるが、決してそうではない。茶褐色で小堅果状の種子を短枝の上に1~5個、結実させる。ただし、山吹の品種であるヤエヤマブキには滅多に実はならない。このヤエヤマブキも昔から日本各地に自生していたようである。
大田道灌(おおたどうかん)の山吹の里(東京都豊島区高田馬場付近といわれている)の物語は広く人口に膾炙(かいしゃ)*2されている。道灌が狩の途中、激しい雨に会い、蓑を拝借しようとして訪ねた家の娘が、蓑の代わりにヤマブキの枝を差し出した。「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」の歌意から、山吹の枝で返事をしたのである。しかし道灌はこの歌の意味を知らず、腹を立てて帰ったのであるが、後でその理由を知り、後悔したという故事である。これが史実であるとすれば、娘の差し出した山吹は、おそらくヤエヤマブキであったと想像できる。
ヤマブキは山振を語源としているらしい。山風に吹かれて枝がなびき揺れるところから転訛したといわれている。万葉集でも山振と表記されており、長歌を含めて17種も収められている。その中でも有名なのが次の歌である。
天武天皇7年、十市(とをちの)皇女(ひめみこ)が病気で亡くなられた時、高市(たけうちの)皇子(みこ)が詠まれた挽歌である。山吹の花がまわりを飾っている山清水を汲みに行きたいのだが、そこへ行く道が分からないと嘆き悲しんでいる歌である。山吹の花の色の黄と山清水の泉を合わせて黄泉(よみ)(冥土)を暗示しているのである。二人は天武天皇の異母兄妹の関係にあるが、秘密の恋があったといわれている。
俳句の世界でもヤマブキは題材としてよく使われており、古今を通じて名句は多い。
芭蕉の[古池やかわず飛びこむ水の音]の原形の初句は[山吹や]で、後に[古池や]に本人が変えたものと伝わっている。